<コラム39> 2021.10

 


「自由」考

村久保 雅孝


近頃、「自由」にまつわる刺激的な対話を体験した。春と秋のグループをご一緒している池見隆雄さんが催した研修会でのこと。池見さんの話はスピノザの説とスピノザを学ぶ中での気づきを分かりやすく、時には私が了解できないままに語られた。その時のゲストは本山智敬さんだった。本山さんは「中動態」についてご自身の理解やそこから誘発された思いなどを語られた。僕がここに書くことは、そこでの対話やその後の本山さんとの対話によるものであって、ほとんどが受け売り。だから、きっと、池見さんは「まだ早いんじゃないの」とたしなめるだろうし、本山さんは「ええっ、先に書いちゃうんですか」って言うかもしれない。でも、僕なりにしっくりと馴染んできてもいる。だから、先に書いちゃうもんね。

 


エンカウンター・グループでは一人一人の自由を尊重する。大事にする。もちろんそこには常識的な制約はある。でも、それは制約というより、各々の自由を尊重するためのお互いの配慮と思っている。エンカウンター・グループでは、その人らしく自由であってほしいと思っている(つもり)。

でも、時にはなんだか奇妙な不全感を持つこともあった。たとえば、その人は(特定のだれかではなくて、そういう人もいましたということ)たしかに自由そうにしていた。セッションで寝転がって、気持ちよさそうにしていた。セッションの時間に執着せずに(そのように見えた)散策など楽しんでいた。なんだか自分を解放しているようにも見受けられた。それは本当にそれでいいんだと思った。でも、ふと、それだけで本当にいいんだろうかと思うこともあった(明らかに余計なおせっかいですが)。物足りないという感じもあった。制約はより少ないことが自由なんだということは基本的に納得できるし、基本的に大事なことと思う。普段は味わえないような自由を満喫している…いいじゃないか。でも、なんだか物足りない。自分がそう言われたら、多分「余計なお世話」と思うのだろうが。

子どものころは、自由が大好きだった。自由行動とか自由時間といわれると、ウキウキした感覚があったことを覚えている。何をしたのかは覚えていないが、ウキウキ感は思い出せる。しかしそのうち、「自由には責任が伴う」などといわれるようになり、面倒臭くなってきた。子ども期が終わるころには、ほどほど自由であればそれでよかった。ただ、やっぱり、自由って大事だったんだと思い出すエピソードがある。

高校のある夏、その前年には何も言われなかったちょっとだけ黄色がかった「白」のボタンダウンシャツで登校した。校門で見たことない奴(ここでは奴)が服装チェックをしていた。見たことないのは、多分、新任の教師で他の学年の担当だったからだろう。僕の「白」のシャツにいちゃもんをつけてきた。これは規則ではどうたらこうたら・・・。「去年はなんも言われんかったですよ」と、一応言ってみた。僕の学年のなじみの先生だったら「そうやったか」と言って、それでおしまいのはず。でもそいつは、去年は去年でどうたらこうたらとしつこい。「なんで去年がよくて今年がいかんとですか」と一応敬語のつもりで、しかし僕より背が低かったそいつを見下ろすように、あくまで丁寧に言った。それでもまだなんか言ってるので「もうよかでしょ」と言って、取り合うのをやめて、さっさと教室に行った(これには後日談はありません)。これ、自由についてのことではないかもしれないが、理不尽な制約はやっぱり嫌だったんだと思う。

長じて(30代のころ)、関心はあったが苦手な演劇がらみのこともあって敬遠していた竹内敏晴さんのワークショップというかレッスンというか授業というか、に参加することになった。ある時、竹内さんが「自由って、したいことをするって思っていない?」と聞いてきた。「本当はね、自由って、したくないことを絶対しないってことなんだ」と続けた。そして「って、ルソーが言ってた」と言ってにやにやしていた。ルソーのどこ、と聞いてみたが、「探してごらん」とだけ言われた。僕は探しもせず、他の人に聞いて、それが「孤独な散歩者の夢想」という、ルソーの最後の著書にあると知った。ルソーは「私は、自由について語ってきたが、自由をしたいことをするなどと言ったことはない、自由とは、したくないことを、用心深く、しないことだ」といったようなことが書かれていた。だから、自由って輝くんだ、と思った(というのは、僕がここだけを切り離して取り出して理解したからで、ルソーがそういいたかったのかどうかは知りません…ルソーはどう言ってたのって思う人は、ルソーを読んでください)。

そんなこんなの後で、エンカウンター・グループでの自由を大事にしつつ、奇妙な不全感も持っていた。そして、この不全感は、池見さんの話と本山さんとのやり取りを得て、今は「なるほど」と思える。不全感風の感覚は減った。

「自由」って、ただ制約がないこと(少ないこと)だけではなくて、したくないことをしないようにすることだけでもなくて、「自由」って、その中でまず自分自身がしっかりと維持され、さらに自分の可能性に向けて劈かれ(ひらかれ、と読みます...竹内さんの文字使いを引用しました)、それが他者への押し付けにならずに共有される、「自由」ってこういうことも含んでいる。こうして、僕の奇妙な不全感の物足りなさはどうしてか、という問いはほどけた。

 


この文章、いろいろと書いてみたわりには、ちょっと尻すぼみな終わり方になりそう。それというのも、この「自由」考、僕には新鮮で刺激的で、どこかで話したい、どこかに書きたいという気持ちが強かったけど、実は分かり始めたばっかりで輪郭もぼんやりしている。やっぱり、まだ早かったか。でも、書いちゃったもんね。(了)