<コラム41> 2021.11

 


「信頼」の岸辺

永原 伸彦



 ある時、知り合いの子ども園の園長さんからサンタクロース役を頼まれた。園長先生がサンタに扮すると、すぐ子どもたちにばれてしまって、やたらにサンタの衣装を引っ張ったり、付け髭を外そうとする子供がいて困っちゃうんですよ、ということだった。

 その園長先生が話されたことで印象に残っていることがある。「親たちは、子どもが小学校に上がるときが近づくと、喜びもあるが、やはり心配そうな表情にもなるんですよ」。実は、その心配の度合いにも差があって、限りなく心配の度合いが強まっていく親もいるし、「確かにうちの子どものことを考えると心配の種は尽きないけど、でもまあみんな小学校に上がって来たんだし、まあ何とかなるのかなあと思うんですよ」という親もいる。園長先生がつぶやいたのは、「子どもはすごく助かるんですよね。何とかなるのかなあという思いを持ってくれる親に」。つまり、不安や心配は子どもに伝染すると言っているのだ。そして「悩みながらも信頼していく」ということの大切さを語っている。

 東京工業大学の准教授の伊藤亜紗さんは、専門が美学、現代アート。この人の哲学的身体論やコミュニケーション論が非常に面白い。彼女は「安心」と「信頼」の違いに注目していて、次のような例を出している。息子が大学生になり東京で生活することになった。親が安心するためにGPS発信装置を絶えずONにさせておく。位置情報が確認できるので親はひとまず安心。このように人間関係において自分が安心するということを優先すると、限りなく管理に傾く。これに対して、「たしかにうちの息子は何かと心配だ。ボーっとしているし頼りない。しかしまあ苦労しながらも何とかやっていくだろう」と、不安はありつつも彼のことは彼に任せようとする態度、こういう態度こそ「信頼」というものを深めていくのだと述べている。

 こういう話を聞いていると、「悩みながらも信頼していく」ということの大切さを痛感する。そして私は、やはりエンカウンター・グループ(EG)のことを考える。

 EGの魅力は様々な角度から論じられると思うが、特にベーシックEGにおいてはこの「悩みながらも信頼していく」というプロセスが非常に大切にされていると思う。初めの頃、参加者は多かれ少なかれ、グループの中に「安心」を求めて自分の居場所を模索する。やがて一人ひとりの存在が輪郭を持って見え始め、つながりと交流を求めて紆余曲折のグループの旅路が始まる。紆余曲折と暗中模索の旅路である。

しかし何回EG経験をしても不思議としか言いようがないのだが、紆余曲折の果てに、気がつけばあの「信頼」の岸辺が見え始めている。もちろん、いつもそうなるとは限らないが、しばしば何かが生じて何かが開かれ何かが育まれていく。それは、あの「悩みながらも信頼していく」プロセスと似ていて、ひとりひとりのメンバーが自分たちのグループを少しずつ「信頼し、身をあずけ、身を任せていく」心の旅路でもあったのだ。

 私は、二つの変化に注目したい。多くの人が経験していると思うが、初期の頃あれほど重苦しかった沈黙の時間が、ある時点から、しばしば味わい深い時間となっていることである。もうひとつは、「メンバーのファシリテーター化」である。メンバーの誰かがその時々に応じてファシリテーター的になっている。「めだかの学校」のようになっている。これらの変化が示しているのは、多くの参加者が「悩みながらもグループを信頼していく」という旅路を歩んだ、ひとつの証(あかし)ではないだろうか。これらの変化は、グループが「信頼」の岸辺にたどり着き、その地平を歩み始めたという、ひとつの表れではないだろうか。