<コラム8> 2011.10.1


フェルトセンスと準拠枠

松本 剛

 

 私は、電話相談ボランティアからカウンセリングの勉強を始めた。数年して夜中に相談を担当していた私に、「今から自殺する」という電話が掛かってきた。若かった私はパニックになり「そんなことを言わずに・・」と説得した。しかし、その方は「いや、こういう方法でこれから死ぬ」とかたくなである。しばらくそのようなやりとりが続き、「君は○○君だろう」と言われた。私が「違います」と応えたところ、「そうか、もういい」と電話を切られてしまった。 

 

 その方のその後が気になる私は、次の日の夕刊の三面記事にくまなく目を通した。すると、私に話していたのと全く同じ方法で、話したことと同じく「人生に悔い無し」と書かれた遺書を残して自死した人の記事がそこに掲載されていた。私はその後一週間食欲をなくし、カウンセリングの勉強を続けることについて悩んだ。「自分には向いていない」-そんな思いが何度も頭をよぎる。その間、何人かの人に話をきいてもらった。尊敬するカウンセリングの先輩方、先生にである。しかし、私の思いは消えず相変わらず食欲は出てこなかった。 

 

 一週間後、ふと「あれはあの人の問題だったんだ」ということばが頭をよぎった。不思議なことに、その後食欲が戻り気分が楽になって、胸のつかえが下りた。カウンセリングの勉強を続けられるように思えた。それからの私は、「死にたい」という内容の相談にもパニックにならずに関わることができるようになった。 

 

 「共感」することは、たやすいことではない。人をわかろうとすることは、同時に自分自身の中にあるさまざまな思いにも目を向けざるを得なくなるということでもある。自分の準拠枠と相手の準拠枠の境目は、つきつめるとあいまいでもあり、そこで自分の課題が浮き彫りにされてしまう。他方、冷たくその境目と距離を取っていては相手とつながることはできない。私は自分の「感覚(フェルトセンス)」がそのような境目での自分の変化や「少し乗り越えられた」というサインを与えてくれることを知った。自分を少し信用できるようになった。 

 

 その後もさまざまな場面で、人とかかわる中で自分を受け入れることが難しい場面と出会ってきた。グループの中での私の態度や発言に対して、ほとんどのメンバーから批判的なメッセージを受けて、強い孤独感を感じたこともある。その都度落ち込んだが、そのような体験は、その後の「自分の相手を共感的に受け入れる度合い」の広がりを生んだと思われる。